一二三と言う。一と言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三、一つ/\組むようなもの。成程という理治まれば、十分神が守護する。(明治39年5月20日)
なるほど、と合点がいく。すると心が治まる。ものごとがこのように進んでいけば、そこにトラブルが生まれる余地はない。
この場合、何をもってなるほどと思うのか、それが問題である。自分の都合に合わせてか、あるいは親神様の話になるほどと思うのか。自分の都合に合わせてならば、トラブルは不可避である。
親神様の話は先を見通しつつ、人間の根源からの話である。しかし、あまりよく分からないというのが、ほんとうのところだろう。親神様の話を聞いて、すぐに心に治まる人は少ない。もし、そういう人があるとすれば、よほど魂に力がある人に違いない。「一と言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三」というように、ものごとの順序が、すでにきちんと胸の内に治まっている人である。逆にいえば、親神様の話を順序よく、一と言われたことを一として納得し、二と言われたことを二として了解していく。それが信仰の歩みである。
そこに、親神様の話に人間心はさらさらないことが分かる。このことが分かって、なるほどという理が治まる。ご守護があるということになる。
しかも、こうした心のはたらきすら、自らが思案しているように思うが、実は「心というものは、皆んな神が守護してある」ともいわれる。驚くべき宣言である。もちろん、人間の心遣いまで支配しているという意味ではなく、親神様のご守護あればこそ、心をはたらかせることができるということ。使った心のはたらきだけが、自分のものなのである。この心のありようから、なるほどと思い至れば心が治まる、ということになるだろう。(安井幹夫、「今日は晴天、今日は雨 おさしづ百の教話集」、天理教道友社)